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7 generatins walk②―わたしとの出会い 

〈わたしとの出会い〉

歩くのは好きだけど、一日中、それを何日間も歩くことは、7gwalkの前は想像していなかった。でも歩けた。

今回のウォークでは、一緒に歩く人がいたというのが大きいだろう。それともう一つ。
途中で、知り合いを訪ねるために、ウォークからはずれ、ひとりで歩いた峠がある。その峠を越える前に会った94歳のおばあちゃんが「昔は炭を買いにこの峠も歩いてたねぇ」と話してくれた。その話を聴いて()みんな歩いていた道だ」と思ったら、自然と気負っていたものが軽くなった。そして、歌を歌いながらの最高に気持ちのいいウォークになった。人ってもともと2本足をもっていて、エンジンは持っていない。「何十キロも歩けるか?」と思っていたのは、歩けない足ではなくて、そう思う私の心だったことが分かってきた。

そうして、何日も歩くと、いろんなものを見、話し、感じる。体は時に疲れたり、時に足が痛くなることもあった。それでも歩くのは、他の仲間たちの言う「ウォーカーズ ハイ」みたいなものを感じてくるから、と思う。

どんな感覚かというと、確かに足は痛いし、感情的にも「今日は疲れたなぁ」と思っているけど、体や感情とは別に、魂というか命というか、そういうものが生き生きとしてくるような感覚。歩いている仲間の表情を見ていると、整形したわけでもないのに、顔が生き生きとして、目が輝いてきている。最終日のハグサークルの時には「いい顔になったね」とか、イベントに来ていた歩いていない人に「何か歩いた人は、顔が違うよね!」と言われた。
 歩いていたら、「からだっていう器を通して、いろんなものを経験させてもらっている」」という感覚を感じた。そう感じるようになると共に、痛みも友達というか、経験させてもらっていることの一つとなって、からだが軽く感じた。そして、人に触れて温かさを感じたり、音の鼓動を感じたり、命を生み出せるからだがあることを、ありがたく、愛おしく思えてきた。

 それから、にも変化があった。「~ができて楽しい」とか「~になって嫌だ」とが、出来事に対して大きく波立っていたようなことを手放していって、動じなくなってきていた。心がなくなったというのではなくて、目に見えるものに対する波が小さくなった分、小さなことや小さな命に幸せに思えたり、仲間と出会いまた旅立っていくときに何ともいえない想いが自然と出てくるようになった。このままニュートラルで小さな波になったらなくなってしまうのではなく、空のように無限で自由になっていく気がする。








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